昭和41年01月31日 夜の御理解
ここ二、三日風邪をひいておりますから大事をとらせてもらって、午後から休ませて頂きます。眠ってしまうと夜に眠れんから、できるだけ一生懸命起きて色々思います事はやはり、信心の事であります。神様が何かとこう囁きかけて下さると、まぁそう言う様な中に、私ふっと、これ私昼からこないして休ませて頂いて、私こんな事でいいだろうかと、思ったんです。
これは無理をしてからでも、お広前勤めた方がいいだろうかと、いうふうに思たり致しましたら、神様から「伝える」ね、人偏にあの「伝」という字ですよね。「伝」という字を略してしますと人偏に「云う」と書く。物を云うと書く。ね。人偏に「云う」これを伝えると言うのでしょう。ね。正式に書いたらこのこう書きますよね、専門の「専」人偏に「専」という字ですか。それをその書くんですね。
それで御理解に頂くのが「人に云うておる事、人に伝えておる事、それを私自身も聞いており、私自身も実行しておれば楽じゃ」という御理解を頂きました。「あぁ椛目の先生は言わっしゃる事ばっかで、人の信者にはもう言いなさるばってん、自分じゃいっちょん実行できなさらん」と言った様な事ならばいけんだろうけれど、お前がそこんところに、まぁ良心に恥じないなら、そりゃ厳密に言やもうお粗末ご無礼な事ばかりでございましょうけれども、ほんとにあの、神様を伝え、神様の事を皆さんに伝えておる。
それを私自身も頂いておる。そして私がそれを行じておる。人に伝えておるということ、人に言うておるということを自分が行じておるならば楽だと。そういう境地が、いわば助かっておるということだという意味の事を頂くんです。ね。これはもう皆さん、ここ百人のご信者ができれば、私百人力の力私受けなきゃならんと私自分で思っておる。千人の人が助かる為には、私が千人の力、千人力を受けなければならない。問題は私自身が助からなければならない。
私が助かる事なんだ。だから私が助かる為には私もどうでも神様が言うて下さる、教えて下さる事を私自身も行じ、それを勤めて精進して行かなければ、私自身が助からないのだということ。私が「口に真を語りつつ、心に真のなきこと」と言った様に、神様の教えて下さる事を私が空虚なものに、空なものにしたならば、私の信心は空っぽになるでしょう。ね。私今日田主丸の小野先生が今日参って来た。色々御理解を頂いた。
なかなか御理解を頂かない人ですけれども、今日私が「この私が毎日椛目に参るのを家内が笑う」とこうまあ腹が立つわけなんです。「あなたが参りなさったっちゃ病院が繁盛し出すんですか」ちゅうてから言う。「もういっそのこと止めなさい」っち。まぁそんな事からでした、色々私話させて頂いた。小野先生、私があんたの事をこれだけお願いしよっとに、あんたがおかげを頂ききらんということは、いよいよあんたの信心がつまらんからと私は申しました。
私がこれだけあなたの事をお願いさして頂きよるのに、あなたが例えば家内からでも下げ詰れる位にしか、おかげを現していないとするならば、あなたの信心がつまらんからじゃ。それじゃあ親だって家内だって付いて来やせん。私がね、私自身がここでおかげを受けていないならね、例えばその、まあ世間には色々ありますよね、自分自身がおかげを頂かずしてから、おかげが頂けると、言う様な事を言う人もありますけれど。私自身がおかげを受けておる間は、私はこれはもう絶対あんたが悪いとしか私言わんと。
私がおかげを受けきらんことなってからもう椛目に参って来なさんなと私は申した。また参って来てもおかげを受けられんのだ。私自身をあなたいつも見て行きなさい。私がおかげを受けておるじゃないかと。私がおかげを受けておる、そして私が伝えておる事をあんたが行じないから、あんたが助からんのであり、家内からでも蔑まれるのだ。ね。先生は言うばっかりで自分自身がもう助かっちゃないじゃないか。ね。
私の、私の家に周りみな言うてほんとに全ての事がです、全ての事が一分一厘の間違いのない働きが、椛目のお広前の上に現れておる。これは私自身がおかげを受けておるから確信を持って、一人一人にそれを伝えられるのだ。そして、おかげを受けられんのならば、それはおかげの受けられん、あんたが間違ってるからなんだ。 もう今日は私、もうずいぶん、まあお広前いっぱい大きな声で、私がこうまあ叱るようにその事を伝えさせて頂いたら、先生ほんとにそうだ。
今日からまぁ一遍私がお願いし直す。あんたが子供の教育の事なんかにでも、走り回っておる事でおかげが頂けれるか。昨日なんか、子供の教育の事で先生なんか頼みに行ってる間に患者が来たから、そのそれをやかましく、家内が言うたというわけなんです。ね。だからあんたはもうドンとして、「もう俺は患者の事と、神様のお参りの事だけしかせんぞ」と、便所の掃除からもちょいちょいなんかしとるっちいうわけです。ね。だから子供の教育の事は家内に任せておけ。
家庭の事の拭き掃除の事は、女中をお繰り合わせを頂け、女中もおらん看護婦もおらん。しかたがないからやはり、先生が女中代わりもせなんならん。子供の事も面倒見てやらんならん。そういうことではいかんから、とにかく主人は主人としてデンとして、医者なら医者の天職をまっとうする。その事を全う出来る為の信心にかかりなさい。家内はもう勝手の事、また子供の事にかかりなさい。そしてお繰り合わせ願うから、看護婦のお繰り合わせを願いなさい。女中のお繰り合わせを願いなさい。ね。
そしてそこに、勝手の事は女中に任せ、子供の事は家内に任せられるところのあんたおかげを頂ききらんから、今のような事ではいつまで経ってもおかげを受けられん。と私言うて申しました。だからもう、私も今日からその事お願いするけん、その事に焦点を置いてから参って来なさい。問題はやはり、ただお参りをさして頂いて、お取次ぎを頂いてお願いをするから確かにおかげを頂く。おかげを頂いて来たから、ならあんた方のような、いうならまあ最高の学問を身に付けた。
しかも仕事は学者と言う、いわゆるその科学一本で行けれる学問を身に付けておりながら、まぁある意味合いでは、迷信と言う様な人達がある。信心は変だと言う人達もある。そういうそしりを受けながらでも、やはりおかげを受けるから椛目に参って来ておるのじゃろうが。だからそういうおかげじゃつまらん。自分自身が変わらしてもろうて、自分自身が助かって、自分自身が助かって家内を助けて行け子供を助けて行け。ね。
そういう助かりにもう一段そこんところを越えたところの、助かりでならなきゃいけないんだ。と言うて申しましたことが、小野先生だけに対しての事ではない。お互いもそうだとこう思うのです。ね、ですから問題は子供じゃない主人じゃないのです。家内じゃないのです。信心をさして頂いておるその人、自身が本当に助すからなきゃならんと言う事。神様からですたいね。教えを行じさせて頂いておる。例えば私がこれを皆さんに伝えておる事をです、人に伝えておる事、人に言うておる事をです。
私が行じておるならばそれでいいんだとこう言う事なんです。ところが私が信者にはうまい事言いよるけれども、自分自身は実行しない。それなら私は心が空で、空しゅうて淋しゅうて言うておられないでしょう。でおかしな今はそれをごまかせなきゃおられないでしょう。ごまかす必要がない。引っこ抜かせるものなら引っこ抜かせて見せてでもやれるおかげを頂かなければです、ね、そこに実は私に助かりがあるのです。
信心とは本当です誰かが助かるのじゃない、子供の病気の為に参って来てもです、先ず母親が助かる事によって、子供が助かるのです。それは今日私が小野先生に申しましたように、あの人達は親の代からの、お父さんの時代からの信心だそうですよね、大分におられた時代から、ですからもう何十年の信心だけれどもです、ただお願いをしておかげを頂くということだけにおいては、大変やはりいろんな奇跡的なおかげも、随分頂いて来ておりなさるから、まぁ止めもきらんと、言うておりなさる程度だと私は思うんです。
けれども、小野先生だけのことじゃありません。皆さんもその程度の信心に止まっておるんじゃないかということなんです。お願いをして金光様のお徳によって、ただ助かっておると言うだけ、その助かりも必要。そういうすがらにゃおられん、願わなおられない。これは皆さんもよかろう、縋るもよかろうけれどもです、「どうぞ、願わくば私の心の上に、和賀心を与えて下さい」と言う願いが中心にならなければいけない。
またこんな事も頂くんですね。大きなですね、もう豚がですね、これより以上は肥えられないというて、風船を膨らかせたようと肥えた豚なんですよ。もうばちばちするほど肥えておる。丁度風船を膨らかしたごたる感じなんです。綺麗な豚なんです、もう見事な豚なんです。それとですね、私あの、相撲の中に私が好きな相撲取りがおりまして、なんと言いましたっけ、ほどの太いなんと言ったけ。(信者さん) みょうぶだに。あぁみょうぶだになんでそんなんは忘れてしまうんでしょう。(笑)
そのみょうぶだにがですね、あの人は痩せてますもんね。もうまぎれもない洗濯板がわにかさち言うて冗談言うぐらいにその、言うんだそうですが。この痩せてます。そのみょうぶだにがですね、その豚の背ぐらいしかないです。いわゆる小さい人間のように小さいみょうぶだになんですね。それでそれを力持ちで、両腕で豚を抱えて押しよるわけです。豚のほうが強うして豚が悠々とその、みょうぶだにを押し退けて向こうの方に行きよるといったような、もう漫画にしたいようなその御心眼なんですよ。
皆さんどういうことだと思うですか。ね、いわゆる豚と言や私はここで汚い物といつも申しております。ね。みょうぶだにと言や、まぁ力持ちでしょうね。今が人気花形力士です。まぁこれは私が好きなっと言うですけん、まぁここでいうならば、皆さんと同じ事だと思うです。ね。皆さんも私ファンなら、私も皆さんファンなのだと。私の好きなということでしょう。その私の好きな力持ちの姿が、丁度みょうぶだにのように、豚よりも背が低いくらいな小さい人間のような程度のものじゃなかろうかということなんです。
どうぞ一つ銘々が図を、その図を一つ思てみてから、ね、豚の横に立って豚とあんまり背が変わらんぐらいなみょうぶばにだと一応思てみて下さい。こうやって。ほいで豚がこうやって、こうこう、こうやって豚がこう押しよけちから、みょうぶだに向こうさ行きよるところを頂いた。世の中にはもうほんとに、もうそれこそ悪が平然と汚い事が平然とです、通りまかり通っておるわけなんですよ。ね。もう勝てば官軍で、もうその戦争なら戦争に勝ったらそれが、もう正義のように言うておるんですよ。
世の中でもです、それこそもうほんとに汚い汚い、もうそれこそしみったれた、もう汚い、もう「金さえ貯まりゃよか」ち言う様な、しゅせんど的なものがですたいね。金を貯めておる姿なんかは、丁度風船球を膨らかしたごと、肥えておる豚の姿じゃなかろうかと思うですね私は。ね。儲けさえすりゃよかと、一点張りで、例えばなら金殿玉露のようなお家で住まっておる姿は、それは丁度、いわば豚がです、丸々と肥えたその姿ではなかろうかとこう思うのです。ね。
そして、その人の言う事が平然と、世の中をまかり通っておるのです。それに対するところの、神様を信ずる力の力士が、非常に少ないということなんです。神様を信ずる力の力士がです、非常に力が弱いというか細かい。天地の親神様がです、今の現の、世の中にです、この偉大なる力士を、どのくらい求めておられるだろうかと、私は思うのです。いかに真の平和を願ったところでです、ね、銘々が助かり、銘々が真の力持ちにならん限りはです、悪のほうがまかり通るです。
汚い物がまかり通るです。汚い物にいわば押しまくられて行くです。そして、ある人はそれを言うんです。「信心しよらんてっちゃ、あげん儲けた人もあるもんじゃ。信心しよんなさったっちゃ、いっちょん儲け出さらんもんじゃけん。」と言った様な事などになってくるから、信心さして頂く者は、ほんと須くすべからくあれが信心の徳やらおかげを持って、億万長者にならないかんと私は思う。
それには私は今日言うです、ほんとにお取次ぎを頂いてからお願いをして助かったというだけのものではなくて、もう銘々自身がお取次を頂いてです、助かる事の為のお取次を願わないけん。自分が助からなければダメ。そして、自分が本当に億万長者にならなきゃダメ。汚い豚に対抗すだけの力持ちにならければダメ。でなかったら悪のような事にも、押し通して向こうにそれが、いわばほんとに、神様の道と言った様なものは、世の中には開けない。
私はそんな事を頂いてからですね、ほんとにそれを実感するんです。ほんとにそうだと思うんです。ね。世の中にはほんとに、豚が風船球が膨れておるような姿でですたい、ね、ほんとにそれで、もうほんとにもうよか事なごとしてから、この世の中をまかり通っておる姿です。もちろんそれは、この世だけの姿でしょう。ね。もしあの世の事でも思うたら、次の世の事を思うたら恐ろしゅうてこたえんのですけれども、この世では確かにまかり通っておるということなんです。
そんなら神様じゃけん言うて、まちっと、そげなつば押し押し潰しなさる力持ってなさる、まあ神様自身には力があっても、その力を現しなさるわけにはいかんのだと。それを現すのは氏子なんだ。神様の力を働きを現しなさるのは氏子なんだ。その神様を信じて疑わない、氏子の力士を、今の世の中に求められておるんだということです。そういう大きな意味合いにおいてでも、お互いが助かる。いわば神様を信じる力というものを本気で頂かなければならんということが分かりますですね。
皆さん銘々が助かる事なんです。信心とは。それが私だけの事ではありません。皆さんでも頂いた御理解がです、ほんとに身に付き、血になり肉になり、今日どなたでしたでしょうか。実意丁寧、ほんとに全てを大切にということをです、もう朝から晩まで、誰だったでしょうか。ちょっと失礼しましました。そのお届けされました方があります。もうその事に、一生懸命毎日を、取り組んでおりますとこう言う。もうその取り組んでおる、もうちょっと油断するともう忘れとる。もうほんとに取り組んでおる。
だからなそれがもう血に肉になってしもうてね、もうそのと、そうしなければ馬鹿らしなるのである、アホらしなってから、けれどもそれが身に付くまではやっぱり一生懸命頂かにゃいかんと私は言うたんですけれどもね。ほんとに血に肉になり、自分が為にゃ自分がほんとに頂かにゃいかんです。ね。それにやっぱ精進努力して、努めなければいけないです。お互いがですね、世の中にです。例えば御教えの中にもありますように、「信心をしておれば、親のある子と無い子ほどの違いがある」とこう仰るが。
なるほど、親のある子だからと言うて、撫で擦りばっかりはせん。親があるからこそ、厳しゅうせっかんをする事もある。からと言うて信心の無い者の姿を見てです。ね。その信心の無い人達を、それこそ豚のように、太っておる姿を見てから、羨ましいども思ちゃならん。ね。あれは丁度、浮浪児が自分で働いて、自分で食べて、そして我がよかごたる生活をしよる事と理屈は同じ事だと神様仰るです。ね。だからそういう、んなら浮浪者がです、もう( ? )ね。
自分のお金どんてもらった時には、おいしかもん食べる。ね。寝ると食べる、遊ぶ時は遊ぶと言う様なです、我儘勝手な生活をしておるのを見てです。ね。それを羨ましいと言う様な事を思てはならん。そこに親のある子と無い子程の違いと言うのをです、撫で擦りをされる時もあるけれども、厳しゅう仕付をして下さる時も、親の思いであるから、そこを分からにゃいかんぞと、言う様な御理解がございましょうが。あの暦に。
ですから、そういうほんとに豚のような丸々太っておる姿に対抗するところのものはです、問題は信心させて頂く者がほんとに力を受けなければいけないということ。ね。成程信心させて頂いて、信心の徳をもってするならば、成程金殿玉露のようなお家にでも住めれるのだ。ね。億万長者にもなれれるのだという実証をです、そういう証を立てて行かなければダメだと。それは目先の目先の小さい事ども頼んでから、おかげを頂いたの頂かなかったのと言うてです、一喜一憂しておるような信心からです。
今日私が小野先生にも申しましたように、もうそこの信心は卒業して、次の信心のいわば芯に触れて行けれるような信心にです、進んでいかないけんと申しましたようなをです、皆さん求めなさらないかん。為にはまず、皆さんが助からにゃいかん。為にはまず、皆さんが本気で教えを行じ、そこに精進の心をです、いやが上にも一つ盛り上がって来るものにしてかなければならんと思うのでございます。
どうぞ。